創業大正15年、籐家具職人の店みうらラタン 創業大正15年、籐家具職人の店みうらラタン


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みうらラタン 公式ブログ

2016年5月20日

籐家具職人の店 みうらラタン オバマ大統領広島訪問

この度バラクオバマ氏が現職のアメリカの大統領として初めて広島に訪問されることになりました。広島市民、広島の籐家具職人、そしてヒロシマの被爆二世として特別な思いがこみ上げてきます。

 

籐家具職人の店みうらラタンは初代三浦花市が「籐の乳母車屋」として生まれ故郷でもある広島で創業しました。

 

弟子と一緒にかごを編む初代三浦花市
籐のバスケットを作る創業者花市と弟子

 

1945年8月6日午前8時15分原子爆弾が当店より約1.2キロ地点に投下されました。

 

広島の街は一瞬にして尊い命が奪われ、焼け野原となりました。

 

当時父は消防団の訓練を終えて、母と次女そして三女とともに朝食を終えちょっと一休みとばかりに横になっていました。と、その瞬間強烈な爆風に木造の家屋兼工房は無残にも破壊されてしまいました。ただ、ちょうど横になっていたこともが幸いし建物によって押しつぶされることはなく、強烈な閃光からは建物の屋根によって守られ、何とか家族4人生きながらえることが出来ました。

 

しかし、中学生の長女と小学生の長男は学徒動員で戦争の為に夏休みであるのに屋外で働かされ苦しみながら死んでいきました。そして籐家具を共作り働いていた弟子たちも失いました。

 

父とその家族は生まれ故郷である瀬戸内の島に身を寄せていましたが、焼け野原となった広島市中心部で再び籐家具職人として再スタートする決心をしました。

 

戦後間もなく籐家具店を再開したころの写真
戦後間もなく籐家具店を再開したころの写真(昭和24年ごろ)

 

あれから70年経ち広島の街はあの焼け野原からは考えられないほどの発展を遂げました。

 

父は13年前に他界しましたが、97歳になる母は甲状腺の病を患いながらも静かに余生を過ごしております。

 

現在の平和は広島市民の尊い犠牲のみならず、日本、アメリカ、アジアの国々、世界中の戦争犠牲者の上に成り立っています。原爆を体験し、すべてを失った父でさえ生前「平和と死者の冥福を祈るだけでいいのに」とお互いを憎しみ合う人々をみて嘆いていました。

 

籐家具職人の店みうらラタンは創業より今年で90年を迎えることが出来ました。みうらラタンの節目でもある年に、現職大統領の広島訪問が実現したことは前向きに一歩踏み出せたとの想いです。

そして、私たちは籐家具職人の店を続けていけることに感謝し、戦争犠牲者の冥福を祈り、初代から続くこの想いを次世代へ伝えていきます。そしてそれこそがみうらラタンの終わりのない使命と考えています。

 

みうらラタンショールーム前にて
家族と・・広島のショールームまえにて

籐家具職人の店 みうらラタン 三浦 明利

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